ニザールはようやくペンの動きを止め、暫し自身の書いた文字を眺めた後に、先ほどまでクレティが座っていたスツールを見た。彼女らとは長いこと共に旅をしているが、その素性については本当に知らないことばかりだった。そしてなにより、我々は実に、運命の糸に手繰り寄せられるようにしてMの元へと集まっているという事を改めて認識することが出来た。
我々はそれぞれの人生を歩んできたはずなのに、ある一点から突然、何かに導かれるようにして、驚くほどうまい具合にそれぞれの運命を重なり合わせてきた。間違いなく我々は何かの力によって、今この地に集結させられているのだ。そして俺は、これから始まるであろう物語の、その一部始終を、詳細に文章とし、詩にできる唯一の男だ。ニザールは創作意欲がふつふつと湧き起こるのを感じていた、しかし今は少々疲労していた。一階の酒場で紅茶でも飲んでこよう。自室を出ると、壁際の小さな窓から外を眺めるデシャヴィが居た。
ニザールは下の階へ行くのを一旦止めて、自室のドアにもたれかかってデシャヴィを見た。彼女は微動だにせずに外を眺めていた、凪の海のような平坦な表情だ、何を思うかなど、全くうかがい知れないが、ニザールは自身の想像力を懸命に働かせて考察をはじめた。
—彼女の表情は凪の海のようだ。彼女を例えようとすると、いつも海が関係してくる、それは彼女の出生がそうさせるのかもしれない、小さな漁村の、遠浅の美しい浜辺、心地よい海風、彼女は膝下まで海に浸かる、照りつける太陽に肌は素焼きの陶の色に焼けてつややかに輝く、浜から声をかける家族に幸せそうな笑顔を見せる、デシャヴィにも、もしかしたらそのような人生の道筋があったのかもしれない、しかし、現実はそうならなかった、美しい海を遠くはなれ、酒に酔った男に暴行を受け、森賊に監禁され。そんなひどい人生が、彼女には待っていた、しかしそれをも乗り越えて、彼女は今ここにいて、窓から外を眺めている、まるで凪の海のような表情のまま、彼女は—
デシャヴィはニザールの存在に気づき視線を向けてきた。ニザールは自分の持てる技術を最大限に駆使した最高の微笑みを返して軽く手を振った。そこらの街娘だったら誰だって気分を良くしてくれるはずの微笑みだ、しかしデシャヴィは全く表情を変えないまま、数秒間ニザールを見た。知らない人が見たら、氷のような無表情に見えただろう。しかしニザールは知っていた、穏やかな無風がそうさせているのだいうことを、まさに凪の海なのだ。
「デシャビー!カトりんのパイが焼けたぞーーー!!早くこないとなくなっちゃうよ!!!」
階下から元気の良い声が聞こえた。デシャヴィは一呼吸おいてから、ゆっくりと視線を落としながらニザールに背を向けて階段を降りていった。表情は平坦なままだったが、ニザールにはその小さな背中が少しだけ微笑んでいるように見えた。
(つづく)