ニザール「えっ?」
それまでサラサラとペンを走らせていた手がピタリと止まり、きょとんとしてクレティのほうを向いた。
ニザール「カトリン?」
クレティ「そうだよ、その、デシャビに勉強を教えてた使用人っていうのが、カトりん」
クレティは、自身の体を前後に揺らして、ずいぶんとガタのきている古いスツールの足が軋む音を楽しんでいたが、ニザールがあまりにもきょとんとしたまま動きを止めてしまったので、クレティのほうもなんとなく顔がきょとん化していった。
両者しばらく固まったのちに、ニザールはペンをインクビンに放り入れて、背筋を伸ばしながら頭をかいた。
ニザール「うーんあのさぁクレティ。俺が書いているコレは、別に物語じゃなくていいんだよ、事実だけを羅列できればそれでいい。そこでカトリンが出てくるのはおかしい・・・」
ニザールは、書いていたノートを掴むと、表紙に題された「カルラディア北方叙事詩のための備忘録」という文字を指差しながらクレティの方向に向き直ると、彼女の様子がおかしい事に気づいた。
クレティ「・・・何?私がうそを付いていると思ってんの?」
そういうと、クレティは素早く投げナイフを構えて、じっとりとした視線をニザールの肋骨の4本目と5本目の間の辺りに合わせてきた。
ニザール「おっおいおい、ちょっとまて、俺の心臓を正確に狙うのはよせ。わかった、本当なんだな」
クレティ「なんで私がうそを付かなきゃならないわけ?そっちのほうが意味分からないでしょ」
ニザール「んまあ、そうだけどさ・・・」
うーん、これはカトリンにも話を聞かないといけないな、と、ニザールは少々うんざりしたような気持ちが湧いていた。
ニザール「しかしなんでまたそこにカトリンが居たんだ?彼女は従軍商人をやっていたんじゃないのか?」
クレティ「んーと、スワディア軍に従軍してカーギットへ遠征した時に、スワディアが大敗しちゃって、カトりんは完全に一文無しになってしまった、で、ひとまずディリムの方向へ逃げ帰っていた途中、エルレダ村で何かあって足止めを食らって、それで仕方なく、その村で宿探しをしていた時に、あの屋敷の使用人の仕事をみつけた、っていう流れだったと思う。まあ、詳しくは本人に聞きなよ」
ニザールはインクビンに浸かったペンをゆっくりと引き上げて、ビンの口で付きすぎたインクを落としながら考えた。ふーん、クレティのいう事は辻褄があっているな、まるっきり嘘というわけでもないようだし、一応書いておくか。
ニザール「しかしデシャヴィとカトリンが、そんな昔から知り合いだったとは、知らなかったなあ」
一気にペンを動かして、速記しながらニザールが言うと、クレティはとても驚いた表情となった
クレティ「えっ、なんで知らないの?こんなにずっと一緒にやってきてんのに」
ニザール「んーまあ、良く考えてみたら、デシャヴィってお前の所に居る時以外はほとんどカトリンと一緒だったな、良くなついてるなあ、とは思ってたけど」
クレティ「ベタベタでしょーよ、デシャビはカトりんのことお母さんとしか思ってないんだから、カトりんが危険だと思うと、信じられない行動力を発揮するでしょ、あの子」
ニザール「うーん、そうだっけな、戦場では俺騎兵だから、弓隊の事は良く分からないんだよな」
クレティ「いやいや、戦場だけじゃなくてさ、例えばブンちゃんとかにも、あの子、勘違いして凄いことになってたでしょ」
そう言われるとニザールは、ウクスカルの酒場でブンドゥクがとても情けない顔をしながらデシャヴィに追い回されていた時の事を思い出した。
ニザール「うっ、ククク、あー、そういえばあのときのブン兄の顔は面白かったなあ、そうか、あれはカトリンに対してブン兄が何か悪い事をする、とデシャヴィは勘違いして、いきなり襲ってきたのか。うっ、かわいそうだなwww」
クレティ「あれは悲惨だったねえ、ふふふ」
ニザールはこみ上げてくる笑いにペン先がぶれるのを嫌って、一度ペンを置いた。
ニザール「あの時はてっきりブン兄が酒臭いのが原因かなにかでキレられていたのかと思ってたよ、そういうことだったのか、とんだ災難だなブン兄、あの日、滅茶苦茶緊張してたのに、すげえぎこちなく、俺の考えてやった詩を持って、カトリンの所へ行って詠み出してたのにな。ふくくく、そういう事だったのか」
宿屋の一室が笑いで満ちた。
ニザール「・・・まあ、しかし、ここまでのお前の話だと、デシャヴィは前向きで明るい少女って感じだな、俺が出会ったときの彼女の印象とぜんぜん違う」
クレティ「うん・・・デシャビが本当に酷い事になったのは、この後だからね・・・」
クレティの表情はそれまでと一転して非常に暗いものとなった。
ニザール「・・・そうか。それでその後、何があったんだ?」
クレティはしばらくうつむいたまま体を前後に揺すっていた。それに合わせてスツールの軋む音がリズミカルに響いた、次第にそのリズムにはテンポが失われていき、完全に停止した時、ゆっくりと口を開いた。
クレティ「詳しくは、私もわからないんだけど・・・」
ニザール「・・・話せるところだけでいいよ」
ニザールはペンをインクビンへ突っ込み、次に紙の上を走らせるための準備をしながら、クレティが次に口を開くのを待った。
クレティ「カトリンたちとね、2年くらいなのかな。デシャビの楽しい時期は続いていたと聞いた。だけど、ある夜に、アイツに今までに無い酷い仕打ちを受けて、全身ボロボロにされてしまったの」
ニザールは少しだけ顔色を曇らせたが、一呼吸置いた後に速記を再開した。
クレティ「朝方、瀕死のような状態の彼女をみつけた使用人たちも、これはあまりにも酷い!と怒った。特にカトりんは怒っちゃってね、一人でアイツに、デシャビの待遇改善を訴え出たの。どう考えても、悪いのはアイツのほうだしね、でもダメだった。あの屋敷と、その周辺はアイツの息がかかってるから、どんなに正しいことでも、全て事実を捻じ曲げられてしまって」
クレティは語りながら、古い怒りの記憶がよみがえり、肩が震えるのを感じた。
クレティ「結局、訴えは却下されて、カトりんは逆に、領主に対して反抗し濡れ衣を着せた罪、ということで鞭打ちを受けて、そのまま領内から追い出されてしまった」
ニザールは思い出していた。野外で炊事をするカトリンのうなじが素敵で、ひとつ詩ができそうだな、と寄っていった所、そのうなじからうっすらとしたアザのあとが見え隠れしていた事を。
クレティ「デシャビはカトりんの事を知ると酷く落ち込んだみたい。すこしずつ怪我が治ってきて、看病してくれた使用人たちに感謝した後は、前向きで明るい所はすっかり消えてしまって、もう誰にも心を開かなくなった」
ニザールのペンは淡々とした速度で記述を続けていた。デシャヴィは一体、どんな酷い仕打ちを受けたのか、の詳細。そして、何故それまでの暴力とは違って、今までに無いほど暴力がエスカレートしたのか。クレティの弁から分からないが、考察すべき2点が浮かび上がり、クレティの発言の記述の横に箇条書きに記した。ここの詳細がわからないと、デシャヴィの人格形成の描写を誤る可能性があるな、カトリンに聞いたら詳細がわかるだろうか?いや、あまり期待はできないな、それに、暴行を受けるのは常に夜、デシャヴィに直接聞かないと詳しいことは絶対にわからない。デシャヴィが、この話を俺にしてくれる可能性はゼロだ。デシャヴィの頭の中を覗き見ることでも出来ない限りは、詳細は謎のままになるな。
ニザール「・・・そうか。で、あのデシャヴィの雰囲気が形成されていった。って感じかな」
クレティ「いや、あのときのデシャビはもっと酷かった。打ちのめされて、心を壊されて。自分を助けようとする人を遠ざけてた。関わる人をみんな不幸にしてしまうと思い込んでいたんだね、精神もボロボロだったし、体も痩せ細っていって・・・」
ペンは記述を続けたが、クレティが口をつぐむとほぼ同時に、ペンも仕事を終えてその動きを止めた。しばらく沈黙が続き、ニザールは機能を止めているペンをしばらく見つめていたが、クレティのほうへ目を向けてみた。すると、うつむいていたクレティは、それを待っていたかのようにニザールのほうへ顔を上げてにっこりとして言った。
クレティ「だけど、そこへ私が現れて、デシャビを助けちゃうわけ!」
(つづく)
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